斯くも詮なき日常に

イギリスに移住した30歳男のブログ

ガキの使いやあらへんで、ブラックフェイスについて

年越しを目前に控えた大晦日の昼間、日本に住むニュージランド人の友達からHollyに宛てて一通のメールが届いた。しばらくスマホの画面を凝視したのち、ぷりぷりと怒り出したので、一体どうしたとメールの中身を見せてもらった。

「Jesus japan :S wholesome new years eve viewing」

テキストの後にはダウンタウン浜田がエディ・マーフィーに扮した画像が添付されていた。

日本とイギリスの時差は現在九時間である為、年末恒例のガキ使「笑ってはいけない〇〇」の放送が始まった頃なのだろう。

番組冒頭では毎回出演者がお題に関したコスチュームを着せられ、ダウンタウン浜田だけが他の出演者とは少しズレた格好で登場しオチを付けるという流れがお約束である。

今回は「笑ってはいけないアメリカンポリス」という事で、ビバリーヒルズに出演するエディ・マーフィーの格好を再現する為に、服装のみならず肌の色まで黒く塗った事で、在日外国人達の間でざわめきが広がったらしい。

正直な話、一介の日本人であり人権意識が特別高いわけでもない私には何が問題なのかその時にはよく分からなかった。

「まぁ差別っぽいと言われれば差別かもしれないし、あまりいい事ではないよね」

そう言うとHollyは殊更に怒りを強め、何故ブラックフェイスが許されないのかを私に熱弁してくれた。

その後、日本に住む黒人の方がツイッターにてこれは差別であると表明し、ネット界隈でも取り沙汰され始めた。

ある程度炎上した後、テレビ局が謝罪文を出して終息。そんな流れを予想していたが、意外な事にこのブラックフェイスの是非については賛否両論であり、擁護する側の声が決して小さくない事に驚いた。

そこで今回は無自覚的な差別主義者であった私がいかにして差別に対して学んでいったかを記す。見出しは、その過程で私が実際に感じた疑問である。

これは備忘録であり、オピニオンだ。

しょうもない義憤に駆られた男の妄言に過ぎないかもしれないが、問題を紐解く上での一助となれば、幸いである。

 

ブラックフェイスとは

そもそもブラックフェイスとはどういったものを指すのだろうか。

多人種が黒人を真似て顔を黒く塗る行為そのものが「ブラックフェイス」と呼ばれているようだ。

その起源は1800年に米国で流行した「ミンストレル・ショー」であり、現在黒人に扮する事が差別的とされる原因の大部分を占めている。

これは白人が顔を黒く塗りあげ黒人の格好で誇張された黒人英語を話し、知能が低く無教養で下品なキャラクターとして演じられた。そのキャラクターを茶化し、見下し、笑い者にすると言う喜劇の形を取られたという。

反黒人的なプロパガンダの元に作られた訳ではなく、あくまで娯楽的なショーの一つであった。(そのような扇動を行うまでもなく、当時の社会では黒人は紛れもなく社会の最下層であった。)

その為必ずしも否定的な描かれ方をした訳では無かったが、黒人のパーソナリティを陽気ではあるが低俗と言う誤ったステレオタイプとして広める事となった。

 

何故ブラックフェイスがNGなのか、白人のモノマネなら良いのか

これが一般論であることを祈るばかりだが、そもそも「人の身体的特徴を真似したり指摘したりして笑いを取る」という事自体が悪いことだろう。

肌の色や身体を自ら選んで生まれて来る人間などいやしないのだ。

私も以前の会社でしばしば目の小ささをからかわれる事があったが、あまり気持ちの良い物では無かったし、とても些細な事だが、そのような経験は誰しもが持ち得る物ではなかろうか。

さらにこれが肌の色、とりわけ黒い肌を真似るとなると問題は比較にならないほど深刻だ。

黒人には奴隷として売り買いされ、人権を持つ事すら許されなかった時代が存在している。

今でこそ差別は違法とされ、その生命と人権が保障されているが、そんな当たり前の事ですらキング牧師マルコムXなど多くの黒人が実際に血を流して勝ち取った物だ。

 それでもなお、差別が根絶されたとは到底言えず、黒人であるというだけの理由で不利益を被っている人間はこの世界に確実に存在し続けている。

つまり、黒人を茶化したりする事は世界的に非常にセンシティブな問題なのだ。

肌を白く塗り金髪のカツラを被った上、大きな鼻を付けて片言の日本語を喋ったのなら、人種差別的ではあるものの、ギリギリ笑って済ませられるレベルだろう。見ている方が恥ずかしくなるくらい、ダサい事ではあるが。

しかし、黒人に関しては笑い事では済まないのだ。

 

黒人ではなく、エディ・マーフィーの真似なのだが

もし今回、浜田がコスチュームを変えて登場した際、エディ・マーフィー本人と見紛うようなパフォーマンスをやってのけたとしたら、(確実に問題にはなっていただろうが)ここまでの怒りは買わなかったはずだ。

その笑いに至るまでの過程にリスペクトと研究があるからだ。

今回の件がここまでの騒ぎになった理由の一つは、外見だけを真似するというチープな演出にあり、浜田の若干嫌そうな顔とそれを見て爆笑するという構図が不味かった様である。

制作サイドにその意図が無かったとしても、結果としては黒人の「見た目だけ」を笑いのオチに使われた形となったからだ。

黒人はいつも「見た目だけ」で差別をされている。

 

続く

 

ここまで書くうちに、途中で面倒くさくなり記事を消そうとも考えた。

私がこの様な記事を書くまでもなく、きっと他の誰かが似た様な内容をより解りやすく書いてくれるだろうし、何も変わりやしないよ、と。

その旨をHollyに伝えると憤懣やるかたなしといった様子で

「その様な考え方こそが、日本人の抱える問題の一つである」

と一喝された。

自分が何を言ってもどうせ変わらないと投げていては、永遠に何も変わらないままである。支持する意見の正誤がどうであれ、それをぶつけ合わねば問題は先へと進まないだろうとありがたいお言葉まで頂戴した。

つくづく、彼女と一緒に英国へと渡って良かったと思っている。