斯くも詮なき日常に

イギリスに移住した30歳男のブログ

嫉妬に狂う犬

「私は、犬については自信がある。いつの日か、必ず食いつかれるであろうという自信である。」ー太宰治『畜犬談』よりー

 

私が現在お世話になっているスミス家には犬が一匹いる。名をマギーという。毛深いボーダーテリアである。とても人懐っこい性格で、出会う人間のほとんどを、彼女は友人として暖かく迎えてくれる。

元来猫派の私であったが、すっかり彼女に魅了され今や犬派の一員である。

畜生風情が愛玩動物の域を出ることはないと考えていたが、とんでもない。犬は家族だ。

毎朝の散歩も日課と化し、義母や近所の奥方との会話も英語を学ぶ上での良い刺激となっている。マギーは他の犬とも概ね仲が良い。無論、中には折り合いの付かない相手もおり、特に近所に住む他のボーダーテリアとは犬猿の仲である。両者とも、犬ではあるが。出会おうものなら殺し合いを始めかねない勢いで吠え散らし、力の限りで手綱を握る羽目になる。

 

今朝も散歩を終え、居間にて寛いでいると、義母に「今からもう一度、犬の散歩に行きたくはないかしら?」と尋ねられた。

なんでも、散歩仲間の一人の家族が入院したために見舞いに行かなくてはならなくなったそうだ。しかし彼の犬はとても活発であり、退屈しすぎると家の中で何をしでかすか分からないという。そこで散歩仲間である義母に連絡し、散歩の代行としばしの預かりを頼んだという訳だ。

素晴らしい相互扶助システムだと思い、二つ返事で了承の旨を伝えた。

二度目の散歩という喜ばしいアクシデントに、千切れんばかりに尻尾を振るマギーを連れ、早速件の散歩仲間の家へとやって来た。

庭の置物の下に隠された合鍵を手に取り、扉を開けるやいなや、マギーの体躯の二倍はあろうかという、白黒のコリーが飛び出して来た。両眼で色の違うオッドアイだ。彼女の名はシルヴィーという。

いざ遊ばんと、飛び跳ね、抱きつき、玩具のボールを差し出して来た。さぁ投げろ、然るのち、追いかけんとでも言いたげだ。なるほどやんちゃな犬である。

犬派に改宗したばかりの私としては、その勢いに半歩下がる思いだ。

ボールから引き剥がし、リードを付け、あさっての方向へ走ろうとするシルヴィーをぐいと引っ張り、散歩へと繰り出した。

朝と同じ道筋では退屈であるとし、朝とは反対方向の道を行った。

なだらかな坂道を辿り、木々に囲まれた道を抜けると、360度素晴らしい景観を望むことができる、私のお気に入りの散歩道だ。イギリスは山が少なく、たいていは丘に囲まれており、空を広く感じる。

街の喧騒とも切り離され、風の音のみが聞こえるばかりだ。こちらに来てから、風の音とは耳元に聞こえる物ではなく、遥か遠方にこだまする、巨大な息遣いの様なものだと知った。

シルヴィーは道中松ぼっくりをを見つけては、鼻先を器用に使い我々の足元に転がし、私がそれを蹴れば飛びつき咥えてまた足元に転がすという遊びを繰り返した。賢く愉快な犬である。

1時間ほどの道程の後、しばらくシルヴィーを預かるとのことで、スミス家へと招き入れた。慣れない環境に興奮しているであろう、シルヴィーはここでもやはり飛び跳ね抱きつき、我々が隙を見せると顔を舐めに来た。

これはいかんと、庭へ連れ出し遊ぶ事にした。シルヴィーに渡すため、マギーが普段使っていない玩具を探す。紫色の硬いゴムの材質で出来たヘンテコな鳥のおもちゃを見つけた。お腹を押すと、くぇーと妙ちくりんな鳴き声をあげる。君に決めたと、シルヴィーへ放り投げた途端、横からマギーが猛然と飛びかかり、玩具をかっさらって行ってしまった。

喜んだシルヴィーがそれを追いかけ、庭中を二匹でワンワンと吠えながらめちゃくちゃに走った。

そのあと一時間と少し、シルヴィーが帰るまで、マギーはその紫色の変なおもちゃを手放すことはなかった。我々がシルヴィーに別のおもちゃを投げると、吠え散らし、シルヴィーを撫でても吠え散らし、マギーと名を呼んでも吠え散らかした。ずっと鳥の玩具を咥えたまま!彼女にもこれほどの激情が宿っていようとは!

シルヴィーが帰るとようやく落ち着き、後は糸の切れた人形の様に眠りに落ちた。普段なら食事はまだかと催促する時間になっても彼女は眠り続けたままだ。

Hollyは彼女をおもてなし能力の無い犬だと評し、しかし我々はそんな彼女を愛してやまないのである。